手塚治虫の一生

生涯


出自

 手塚治虫(本名・手塚治)は昭和3年11月3日に、大阪府豊能郡豊中町に、父・手塚粲(ゆたか)と母・文子の長男として生まれました。彼は明治に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられました。

 父・粲は住友金属に勤める企業員ですので、カメラを愛好するなど、モダンな人物でした。当時非常に珍しかった手回し映写機(パティベイビー)を所有していて、治虫は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画やディズニーのアニメ映画を観ることができました。しかし、治虫はこの父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白としても回想していることから、ブラックジャックに関してもこの部分が若干なりとも反映されたのではないかと思われます。

 母・文子は陸軍中将服部英男の娘で厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従でしたが、戦中に夫が召集された際は、生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで務める働き振りを示したといいます。またこの母は当時の時代背景を鑑みるとかなりの変わり者で、治虫に漫画本を買い与えただけではなく、登場人物ごとに声音を使い分けて幼少期の治虫に漫画本を読み聞かせていたそうです。また幼少期の手塚の家には『のらくろ』シリーズを始め、200冊もの漫画本があったと言われており、更に、後に治虫の長男・手塚眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見して、これはおそらく治虫によるものだと思っていたら、後で治虫の母が描いたものだったと判明したというエピソードもあります。

漫画描こう!

幼少期

 昭和10年、池田師範附属小学校(今の大阪教育大学附属池田小学校)に入学した彼は、母が東京出身だったので近畿方言を話さず、体が小さく、また眼鏡をかけていたこともあって、学校では「ガジャボイ頭(天然パーマ)」等と言われ、からかいのターゲットになっていました。手塚治虫が中々帽子を脱ぎたがらないのはこの頃の経験によるものがあったといいますが、晩年は蒸れて禿げ隠しにかぶっていたのではないかと言われています。

 そんな辛い幼少期の中でも同級生の石原実と親しくなったことで、昆虫や科学、天文学に興味を持つようになります。昭和12年(昭和12年)にオープンした日本初の大阪市立電気科学館のプラネタリウムには足繁く通ったらしく、また、手塚家の広い庭は虫の宝庫だったので、昆虫採集には最適の環境であったことから、趣味に対し深みを持たせたそうです。ペンネームの「治虫」も甲虫のオサムシにちなんで小学4年生のときに作ったものです。漫画家活躍の初期に当たる昭和25年頃までは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていたのですが、手塚治虫氏と『氏』の敬称を付けられた際に、てづかおさむししになってしまうことから途中で変更しています。この頃から虫の模写なども行っており、まるで写真ではないのかと見まごうほどの精密さを披露しています。

 更に治虫は幼い頃から見様見真似で漫画を描くようになり、特に小学4年生から5年生にかけて懸命に漫画の練習をしていたそうです。丁度小学5年生の頃になってノートに1冊分の漫画を描き、学校に持っていった時に、その漫画ノートを担任の教師に取り上げられ、叱られるとばかり思っていたところ、実際には職員室で回し読みされていて、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったといいます。こうして漫画を描くことでクラスからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになったこともあり、いじめはなくなり、誕生日には二〇人の友人が集まるというほどになっていたのでした。実際に友人が家に来ると、当時としては本当に珍しいことに、紅茶やお菓子によってもてなされて、治虫の誕生日に至っては五目寿司や茶碗蒸しが振舞われたそうです。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されています。

青年期と戦争体験

 昭和16年のころに、大阪府立北野中学校に入学します。ここは軍事色の強い厳格な学校だったので、手塚は漫画を描いているのを教官に見つかり殴られるなどという経験をしています。丁度同じ年に太平洋戦争が勃発し、昭和19年の夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられた挙句、9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、ここで格納庫の屋根にするスレートを作っていました。

 昭和20年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。6月、勤労奉仕中に監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得ました。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなって、後に『紙の砦』(昭和49年)や『どついたれ』(昭和54年-昭和55年)等の自伝的作品の中にも、その様子が描かれています。この体験より後は、手塚は工場に行くのをやめて、家にこもってひたすら漫画を描くようになっています。

 その後昭和20年7月、手塚は試験を受けて大阪帝国大学附属医学専門部に入学しました。この医学専門部ですが戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設されたもので、昭和26年には廃止されているのですが、学制上は旧制医学専門学校と同じであったため、旧制中学校からの入学が可能となっていました。

デビュー、赤本の世界へ

 終戦後、手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った。これは音信不通に終わりましたが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女の人からの紹介で、子ども向けの『少国民新聞』学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて同紙に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(昭和21年1月1日-3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となってました。『マアチャンの日記帳』は描かれる風俗やタッチに新しさはあるものの、路線としては戦前からある家庭向けの新聞漫画にのっとったものでした。この『マアチャン』はローカルながら人気があって、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っています。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載していて、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド(後述するものとは別物)』等も各紙に描かれていますが、4コマ連載という形式に限界があって、後2者はどちらも中断に近い形で終わっています。

 昭和21年、手塚は酒井七馬が後見役を務める同人誌『まんがマン』の例会を通じて酒井と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられます。これは戦後初の豪華本の企画でもあって、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話でした。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され、昭和22年1月に出版されると、当時としては異例の40万部、一説に80万部を超すベストセラーとなったのです(もっとも手塚は原稿料3000円を受け取ったのみであった)。映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられています。

 ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本の一大ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになりました。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げければならなくなった。昭和22年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』等は子ども向けを意識したB級映画的な作品でありましたが、昭和23年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険等を題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(昭和24年)『来るべき世界』(昭和26年)と同じく手塚の初期を代表するSF三部作をなしています。昭和24年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描いていて、昭和25年にはゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』等を発表しています。

 漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも医者なんかよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、昭和26年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、昭和28年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。このため、後に手塚は自伝『僕はマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのですが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べています。

雑誌連載開始

 手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっています。当初期待した講談社では断られましたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に昭和25年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となってました。同年11月より漫画マニア誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、昭和26年には『鉄腕アトム』(昭和27年-)の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載する等多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになりました。昭和28年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなってました。昭和29年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなってました。

 雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行なってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成等の作劇方法へ手塚を向かわせることになりました。一方、描き下ろし単行本の方は昭和27年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と平行して付録冊子の形で描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、この形で単行本時代の作品も続々とリメイクされていった。

 私生活の面では、昭和27年に上京していて、昭和28年に『漫画少年』からの紹介で豊島区のトキワ荘に入居、その後手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫らが続々と入居し、漫画家の一大メッカとなってました。この昭和28年に手塚は長者番付の画家の部でトップとなっていますが、住居が木造2階建て建築のトキワ荘であったため取材に来た記者に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っています。この時、トキワ荘の漫画家には映画をたくさん観るように薦めていて、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたといいます。

劇画との闘い

 『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』等児童漫画の人気作を連載をする一方で、手塚は昭和30年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表していて、ここでは子ども向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みています。昭和30年から昭和33年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出していて、昭和31年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』等の学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(昭和32年)の対象作品となってました。この他にも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイ等漫画家の枠を超えた活躍をするようになっていて、昭和33年には東映動画の嘱託となってアニメーション映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受け持っています。

 しかし昭和33年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝といったような売れっ子漫画家が多数出現していて、この時期の手塚は人気の面ではそうした漫画家たちの一人に過ぎなくなっていました。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新たに登場した劇画の存在でした。

 社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりしました。さらに手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたといいます。またすでに、昭和32年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みる等していて、次第に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになります。『鉄腕アトム』内では、劇画に対する皮肉として「殺し屋ゲキガー」というキャラクターを登場させていますが、後に「殺し屋0000(ゼロゼロゼロゼロ)」に修正しています。

 昭和34年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになりました。この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となったのです(ただし『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証明している)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせています。同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて華燭の典を挙げる。多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったといいます。

アニメーションへの情熱

 少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っていて、アニメーション制作は念願の仕事でした。漫画家になる前の昭和20年の敗戦の年、手塚は焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したといいます。手塚にとって漫画はアニメ制作の資金を得るための手段でした。評論家の大宅壮一から(華僑のように、出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味で)「阪僑」の一人と評されるほど蓄財に走った。自らを「ディズニー狂い」と称しました。

 昭和36年、手塚は自身のプロダクションに動画部を設置します。手塚プロダクション動画部は当初6人のスタッフから始まった。スタッフの給料から制作費まで全部手塚の原稿料で賄い、1年かけて40分のアニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞等数々の賞を受賞します。動画部は昭和37年より「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった。しかし10名に満たないスタッフではディズニーのようなフルアニメーションを毎週行なうのは不可能ですので、必然的に絵の枚数を最低限にするリミテッドアニメの手法を取ることとなってました。後にこのリミテッドアニメの手法が日本アニメに大きな影響を与えることとなってます。昭和42年には自身の原作『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞しています。昭和44年から「アニメラマ三部作」(二作目『クレオパトラ』を監督)が制作されます。これは従来の子ども向けアニメ映画とは逆の位置にあって、大人向けとして作られたアニメーション映画でありましたが、大成功を収めることとなってます。また自身の虫プロダクションが殆どの人材・スタジオを輩出することとなってます。

 リミテッドアニメを用いても1本2000枚分の動画を動画家5名で担当し、一人1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなってました。また作品を1本55万円という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになりました。手塚がアニメの値段を安くつけたのは、当時のテレビ劇映画の制作費が50万程度であったことと、それだけ安くすれば他のプロダクションがアニメに手をつけないだろうという考えからでありましたが、手塚自身が「大失敗だった」と認めるように、これは大きな誤算となってました。『鉄腕アトム』のヒットを受けて低予算のテレビアニメが次々と作られていくことになったのです。さらに、当初経営の苦しかった虫プロは『鉄腕アトム』の版権所得等で利益を上げるようになると巨大化し、次第に手塚自身でも制御できない状態になっていた。『鉄腕アトム』の4年間の放映のうち手塚の原作があったのは最初の1年半だけで、スタッフが担当したその後のストーリーは人気を得るために戦いばかり描かれるようになり、手塚が好むアニメーションらしいユーモアが失われていった。

 その一方で、手塚はアートアニメーションのほうでも大きな功績を残しています。虫プロで『おす』『しずく』『タバコと灰』『創世紀』『めもりい』といったような短編の非商業作品を制作し、第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリに『おんぼろフィルム』が選ばれています(名誉会長ポール・グリモー、審査委員長はラウル・セルヴェ、選考委員長アントワネット・モゼス)。虫プロ社内には手塚の発案により、20万円の実験作品製作資金助成制度まで設けられていた。

低迷と復帰

 虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっていたこともあり、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載等が昭和38年-昭和40年にかけて行なわれています。そう言った事情から、アニメ制作に乗り出し後も、手塚は漫画作品を精力的に発表していました。そのあまりの忙しさからか、自らが社長であるのにも関わらず「忙しすぎる許せん。労働組合を作ろう」という風に提案したという逸話も残っています。

 その後、昭和41年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊します。これは水木しげるなども参加していた、白土三平の劇画作品『カムイ伝』が看板作品の『ガロ』に対抗したものであり、手塚の『火の鳥』を目玉とし、永島慎二や石森章太郎等の意欲的な作品が掲載されました。特に、昭和42年に、怪奇漫画『バンパイヤ』に続き、『どろろ』という作品を『少年サンデー』にて連載を開始しました。これも当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品で、点描など水木しげるが使っていた技法も取り入れたものではあったのですが、どろろに関して言えば商業的には大失敗してしまったと言われています。

 一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)等を発表していますが、もはやこの時から手塚治虫は古い時代の漫画家だとみなされるようになってしまっていて、人気も伸びず、身動きがとれない状況がずっと続いていきます。またアニメーションの事業も経営不振が続いていて、昭和48年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション(すでに昭和46年には経営者を退いていた)が破産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになってしまったのです。この昭和43年から昭和48年の間の作家としての窮地に立たされていた時代を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想しています。

 そして、昭和48年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で『ブラック・ジャック』の連載が開始されたのですが、これも当初は少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の厚意で始まったものでした。しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとしたような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮で、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになったのです。また、それに続いて昭和49年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』によって手塚は本格的復帰を遂げることになります。

 人気が回復したことによって、昭和51年、中断されたままの『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開し、更に昭和52年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えるという人気漫画家に返り咲いていました。また、文庫本ブームに伴って手塚の過去の作品も続々と再刊されていて、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていったのでした。

おすすめ手塚作品

晩年

 そして晩年の、昭和55年代に差し掛かると、幕末から明治までの自分のルーツをたどっていく漫画、『陽だまりの樹』(ビッグコミック)と、アドルフ・ヒトラーを題材して、一般週刊誌で連載をおこなった『アドルフに告ぐ』(週刊文春)などの青年漫画の道を切り開いていくこととなります。

 100歳まで描き続けたいと言っていましたが、昭和63年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により半蔵門病院に入院し、胃癌と判明します。病床でも仕事を続け、昏睡状態に陥るようになってからも意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたといいます。このため最期の言葉のようなものは残しませんでした。翌平成元年1月21日に手塚プロ社長がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたといいます。胃癌という事は伏せて聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったといいます。1月25日より後、昏睡状態に陥り、そして、平成元年(平成元年)2月9日午前10時50分死去。その死によって『グりんご』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』、そして『火の鳥』等の作品が未完のまま遺されました。亡くなる3週間前(平成元年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデア等が書き連ねられていたそうです。

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