手塚治虫の一生

作風と功績


スタイルとその革新性

 特に手塚治虫の才能として語られるのはスタイルの革新性が上げられます。また人によっては、どれだけ歳をとろうと、更に新しい表現を追求していったところにこそ評価すべき点はあると述べている人物もいます。

 特にその革新性に関しての例としては、酒井七馬との共作による昭和21年の『新寶島』が上げられます。これは、戦後ストーリー漫画の原点とされていますが、特に評価が高い点は、この作品で手塚が「映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」ことなどが上げられており、これは一種の「神話」も生んでいます。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(昭和61年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図等も戦前の作品である『スピード太郎』(宍戸左行)と比較しても革新的なものとは言えないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」が見られるとしています。

 これに関しては米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としていて、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行っており、表現よりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説等の冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ています。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れ、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないかという意見もあります。

 一方で、野口文雄は中野の説を批判しており、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の前進を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとして、こういった表現は今までの漫画などには一切見られず、むしろその後の酒井七馬の作品にも影響を与えたと指摘しています。

 他にも、赤本時代の手塚漫画の一つの達成として「コマの読み方」を変えたことなどもその一つに上げられます。それまでの日本の漫画は、今の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大範囲に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という今の読み方を少しずつ試み浸透させていったのです。また更にこれに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄を記号化していき、微妙な線の変化をによって、人物造形や表情のヴァリエーションを増やすという手法も用いていました。流線や汗、擬音等の漫画的な記号も従来に比較して格段に増やしていて、このような表現の範囲の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし、また絵柄の記号化を進めた事は、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなったのでした。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」等を始めとした悲劇性の導入で、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、より後の漫画界における物語の多様さを準備することになったのです。

 その絵柄の記号化、体系化は、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にし、実際に漫画制作にアシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初です。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペン、スクリーントーンの導入などの事例があります。

漫画描こう!

手塚治虫のテーマとは?

 手塚治虫の作品のテーマの中にあるものは、比較的時期によって少しずつ変わっていlyつているのですが、17年もの間連載された代表作『鉄腕アトム』の中などでは、異民族間、異文化間での対立や抗争を繰り返しテーマにしています。特にこれは手塚治虫が戦後間もない頃に、酔っ払ったアメリカ兵に理由もなく殴られ強いショックを受けたことに起因するもので、これがこのテーマの原体験になっているのだそうです。しかし、『ジャングル大帝』等における「分厚い唇、攻撃的なイメージ」というステレオタイプな黒人観に関しては、比較的批判される傾向にあったようで、実際に、手塚の死後の平成2年には「黒人差別をなくす会」によって糾弾を受けることとなっています。また、これ以後、手塚の単行本が再販される度に、差別と受け取られる表現について弁明する但し書きが付けられるようになりました。

 また手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げており、これらのテーマから手塚作品のヒューマニズム的な側面がしばしば強調されることになったのです。しかし、手塚はインタビューでそのことを指摘された際に、「はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と皮肉を込めた発言も残しています。別のインタビューではヒューマニズムという側面からの制約がある自身の作風と比べ「つげ(義春)君とか、それから水木(しげる)氏、滝田ゆう、このへんなんか、ほんとに本音だけで描いてるんで、羨ましくてしょうがない」とも述べています。

 また、このテーマ性に関して、漫画を描く際にプロ・アマ、更には処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、『基本的人権を茶化さない事』を挙げ、どんな痛烈且つどぎつい描写をしてもいいがより下の事だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べていたそうです。

  • 戦争や災害の犠牲者をからかう
  • 特定の仕事を見下す
  • 民族、国民、そして大衆を馬鹿にする

手塚が影響を受けた人ともの

 手塚は幼少期から独自の漫画を描いています。特に田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をしばらく続けておりましたが、7歳の頃になると謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になり、この本の模写をするようになったそうです。結果として、手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける昭和30年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄になっていき、これは「ディズニースタイル」とも呼ばれていました。その後、本物のディズニーのアニメーションに出会ったのが二年後の9歳のときになり、毎年正月に大阪の朝日会館で開催されていた「漫画映画大会」によるものでした。その後、父が家庭用映写機を購入した時に、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』も見ていますが、それ以降はディズニーのアニメーションに心酔して、昭和25年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回も見ていたといいます。そんなことから、手塚は「尊敬する映画人」として、チャールズ・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げています。また、竹熊健太郎は手塚が得意とした「楽屋落ち的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、フライシャー兄弟のアニメーションからも影響を受けているのではないかと指摘しています。

おすすめ手塚作品

悪書追放運動との戦い

 一時期、子どもに対して悪影響となる漫画を追放しようという運動が活発化しましたが、例に漏れず、手塚治虫の漫画もその対象となってしまっています。特に鉄腕アトムなども、その対象となっており、「文字がほとんどない。あるのは、ヤーッ、キェーッ、ドカーンといった音や、悲鳴ばかりである。これでは、読書教育上まったく有害無益である」「絵が低俗で、色も赤っぽい。こういうものを見せられた子どもは、芸術感覚が麻痺し、情操が荒廃する」「一ページの中にピストルが十丁、自動小銃が二丁も出てきた」といったわけのわからない批判を受けて、実際に過激な主婦活動家達によって燃やされてしまうという焚書事件までが引き起こっていました。

 しかし、その後、評論家や親や先生が口をそろえて「これは本当にいい漫画だ。すすんで子どもに読ませたい」という漫画が続々と出てきたものの、その殆どが返本の山となり、子供達は取り上げられたり焼かれたりした漫画をどこからともなく引っ張り出してきては、こっそり読んだという現実に、徐々にあきらめムードとなっていったそうです。

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