手塚治虫の一生

人物


たゆまぬ進歩と挑戦の人

 手塚治虫を語る上で欠かせない逸話は、当時からマンガの神様と呼ばれていたのにも関わらず、新人漫画家に対してライバル宣言を突きつけまくっていたというところにあるかと思います。そんな事に関係してかはわかりませんが、長らく生まれた年を大正15年(1926年)と2年繰り上げて自称し、著書の著者紹介でも書いていたそうで、本当の生年が親戚等や学友以外の世間一般に初めて明らかにされたのは死去直後のことだったそうです。

漫画描こう!

才能とライバル意識

 手塚治虫の才能を語る上で出てくる逸話の一つに、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことをテレビ番組で証明していますが、実際にはある程度の下書きを描いていたそうです。しかしその下書きも、台詞や枠をある程度決めるために描いているもので、人物などはある程度どの場所に描くかを指定するようなものでしかありませんでした。よって枠組みや台詞、そして人物の場所が四角や三角、丸といった記号で描いてあるだけのものだったそうです。しかし、実際に手塚治虫はフリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという逸話があります。常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかったといい、実際に描く際にも手ではなく、原稿を滑らせるようにして描いていたという独特な手法なども後世の人物によって語られています。しかし、死去の前年には林家木久蔵に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っているという一面もありました。

 そんな彼ですが漫画の技法を自ら開拓していく傍らで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れたり、水木しげるの妖怪漫画が流行すると『どろろ』等の自作で水木風の点描を用いるようになったり、大友克洋が注目されると大友風のタッチを取り入れる等、その時々の流行に敏感に対応するとともに、その新たなる時代の新人に対して、「君は才能がない」「そんなこと僕にも出来る」などとライバル意識をむき出しにしていたそうです。また手塚自身は競争心・敵愾心が強かったことでも知られていて、ライバルの作家との様々な逸話が残っています。これに関して夏目房之介は、手塚に会った際に「怖い人だ」と記しています。これは当時、無名に近かった夏目の作品について手塚が知っていたためで、プロとして尊敬できる反面、面白いと思えば無名の新人であっても警戒する性格と分析し、「必要以上に近づいてはいけない人」と語っています。また、無名の新人の作品を「才能ないよ」と言っておきながらもちゃっかり自分の作品にそのエッセンスを取り入れてしまうようなところもあったそうです。

 更にこの嫉妬深さにについてもっとも語られる事の多いエピソードの中には、愛弟子とも言える石ノ森章太郎が描いたマンガ『ジュン』に対して、そのあまりの才能に嫉妬に狂い、「あれはマンガではない」と批判し始め、石ノ森章太郎自身もその言葉があまりにもショックすぎたため、連載を止めるまでに至っています。その後、手塚が失言を認めて謝罪し「嫉妬に狂ってあんな発言をしてしまった」と誤っているそうです。しかしその後、手塚治虫の大ファンである大友克洋がデビューし、その驚きのデッサン力で世界を賑わせると、また同じようなことをやらかしています。

 更に彼は速読や暗記にも長けていて、500ページ程度の本を20分前後で読破したという逸話も残っています。喫茶店等で打ち合わせの前に本屋に立寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせたという話もある上に、一度読んだ本の内容を全く忘れず、ページ数も含めて全て覚えているという恐るべき記憶力も有していたと言われています。

 また、手塚の負の遺産として代表的に挙げられるのはアニメーターを薄給かつ、長時間労働で酷使し、この悪習が業界に定着してしまった事です。虫プロ破産の一因は待遇改善を求めた労働争議だったそうです。ただしこの批判に対し、夏目房之介は、「手塚のやったことが影響したとしても、それはその後のアニメーション製作者、現場の人間が改善する企業努力を行っていないことを意味するのであって、悪習を定着化させたことについて、全てを手塚の責任のように批判するのはおかしい」と自身のブログで述べています。

 更に手塚自身、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それより長くは眠る事がほとんどなかったと言われており、徹夜をすることも多く、そのことからか手塚の死因を胃癌ではなく過労死だと言う人もいます。

医学者としての手塚治

 手塚は元々医師を志していたこともあり、医師免許を持っていたのですが、当時は実際に医師として患者を診た事はなかったそうで、実際に知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及はいくつか残っているものの、医者としてでは無く、漫画家としての道を明確に意識して進んできたのであろうという事がうかがえます。

 しかし、そんな手塚治虫ですが、実際に旧制中学時代に、栄養失調状態のまま厳しい教練を受けた事が原因で水虫が悪化したことから、もう数日で両腕切断というまでになり、このとき診察した大阪帝国大学附属病院の医者に感動したため医師を目指していたということらしく、漫画家、医者かの二者択一に対して親に相談したという事実も残っているそうです。

 そんな医師としての専門は外科で、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』等の作品に活かされているといわれています。また、先ほど離したエピソードもそのままブラックジャックへと受け継がれて言っているとも言えるかと思います。ただし、実際に医学博士を取得した際の研究テーマは外科分野ではなく、基礎生物学領域のもので、実際に東大医学部生に『ブラック・ジャック』のようなでたらめを描くのはやめたらどうかと面と向かって言われたこともあるといいます。

 事実、息子の眞によると、手塚は血を見るのが嫌いで医師の道を断念したと語っていることから、しっかりとした知識にかけている部分があったということもあるのかもしれません。そんな手塚治虫ですが、漫画家になるか医師になるか迷ったとき、母に自分の好きな方をやりなさいと言われて決心したとも伝えられています。また医学校の恩師に、医師になるよりは漫画家になるように説かれたとも言われています。

 マンガを描く早さなどといった技術的な面は、この外科を志していたというところにあるのかもしれません。

 また、戦後に設置された奈良県立医科大学に電子顕微鏡が導入された際の出来事ですが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置や技術が全くなかったので、手描きでスケッチをしなければならなかったのですが、医学論文に添付するようなスケッチの場合だと、実際に絵が上手いだけでは不適切で、医学的な知性を持った者が描かなければ役に立たないという事がほとんどでした。そんなことから困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んでいます。このため、当時手塚は電子顕微鏡を自由に使うことが出来、なおかつスケッチもできるという日本で唯一の研究者となっていたのでした。

 実際に頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で様々なスケッチを行い、これを論文にまとめ、同大学はお礼の意味を込めて医学博士号を贈ったといいます。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜枠組みの電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、昭和35年10月1日となっており、これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されています。また、同大学の図書館には、手塚が後に贈った『ブラック・ジャック』の絵が展示されています。

 なお血液型はA型だそうで、生前のプロフィールにおいて血液型に諸説があると言われていますが、戦後入院したときに判明したと手塚自身が述べています。しかし一方で、「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、昭和55年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」とも記しているといいます。

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長生き出来なかった訳

 そんな医学を志しながらも、60歳という年齢で亡くなってしまった手塚治虫に対して、93歳という高齢で今なおマンガを描き続けている水木しげるは『睡眠のチカラ』という自作のマンガの中で、「よく食べ、よく眠るのが長生きの秘訣だ」「眠っている時間分だけ長生きする。幸せなんかも睡眠力から湧いてくるもんだ」と語っています。実際に石ノ森章太郎も手塚治虫も徹夜続きの毎日を送っていたり、一日の睡眠時間が平均3~4時間だったそうで、一日十時間以上の睡眠を欠かしたことがない水木しげるからしてみると「寝なさすぎだから早死してしまったんだ」とのことだそうです。しかし、最近は十二時間近く寝ているそうで、それに関しては流石に長生きしても相対的な時間としては短いのでは無いかと思ってしまいます。

トレードマークについて

 トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡となっています。このベレー帽ですが、人前で外す事は滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っています。実際に他の有名漫画家もベレー帽を被っている事が多かったのですが、この理由の一つには、どうやらこれはパリの画家がよくかぶる帽子だったことと、形式張らず、かぶり方にうるさい作法が無い上、更に手入れが楽で安価だったという事が起因となって、漫画家の中で大流行したのでしょう。実際に、パリの画家たちがかぶり始めたのも同じような理由で、これは当時の人間がTPOや地位や職業に応じて帽子をかぶっていた事も相まってか、もはや一種のキャラクター属性として認められるほどの物となっていると言えるでしょう。

手塚治虫の一生

不朽の名作//